大願寺について

大願寺について

 佐渡大願寺の山号は、満松山といい、松林の寺院として知られています。貞和元年(1345年)遊行七代託阿上人による開山としていますが、彼は実際には佐渡には渡っておらず、弟子の二世託岸に佐渡布教を命じ、その命に従って託阿の名号を携え、託岸により開かれた寺院です。
 文和4年(1355年)、遊行八代渡船(とせん)上人が遊行・布教し、島民の信仰が広がりました。弟子僧の書いたものに「大願寺は府中橋本の道場」とあり、国府のなかにあって国府川の橋の近くにある道場という意味から、この念仏道場を橋本道場と称すようになりました。
 天正17年(1589年)上杉景勝の佐渡攻めで兵火に寺堂を焼かれましたが、初代佐渡奉行大久保長安が帰依し、彼の助力により慶長13年(1608年)に再建、相川にも相川大願寺を開き、鎮守天神社を祀りました。

連歌の寺 大願寺

 連歌は鎌倉時代初頭に成立しました。一般には数人ないし数十人が集まって、五、七、五を詠み、それに別の人が七、七の句をつけ、次にまた別の人が五、七、五を詠むというように続けていき、全部で百句詠みます。それぞれの句は主に古典文学に基づく連想でつながって行きます。連歌で百句完成するには、一句に数分しかかけなくても七時間程度かかります。この連歌から室町期以後に俳諧が派生し、その後俳句として独立していきました。

佐渡と連歌

 佐渡に流された順徳院や京極為兼は連歌成立期に連歌に関わった人たちです。
 佐渡での連歌が明確になってくるのは徳川幕府が成立してからで、奉行所の役人の中に連歌をたしなむ者が出てきますし、菅原天満宮や大願寺天満宮を中核として佐渡各地で連歌が行われ、都へ連歌修行に出かける者も出てきました。

天満宮と連歌

 連歌は足利幕府の時代に最盛期を迎えました。初代尊氏が京都北野天満宮に帰依し、公家の和歌に対抗する武家の文芸として連歌を尊重しようとして、連歌の神として菅原道真を崇敬し、北野天満宮に連歌会所を作り、連歌奉行を置きました。連歌奉行が連歌宗匠を兼ね、全国の天満宮は各地における連歌の中心となっていきます。一般の家で連歌を行う時にも、座敷の正面に天神画像または天神名号を掛けるのが正式のものとなっています。佐渡においても大願寺天満宮が佐渡の連歌の中心的存在であり、毎月二十五日に金銀山の繁栄を祈願して月次連歌を行っていました。そしてその連歌会の宗匠が一国の連歌宗匠をつとめます。

 大願寺の創建は1345年ですが、慶長13年(1608年)奉行所のある相川に大願寺を開き、別当となって天満宮を祀りました。
時宗(時衆)は南北朝以来、布教上連歌と密接な関わりがありました。江戸時代に奉行所から毎年米十石の助成もあり、佐渡連歌の中心になったのは当然です。

 歴代住職は宗匠として毎25日ご祈祷連歌会を興業し、江戸期は佐渡連歌の重鎮となり、島民文化を高揚させました。明治維新前後に相川大願寺は松山大願寺に合併されたため、鎮守天神社は現在の大願寺敷地内へと移設されました。

 寺には連歌の古文書や茶道具も多いことからも、この寺が昔から学芸の中心的な存在だったということがうかがえます。この天満宮には学問の神様「菅原道真公」が祀られているので、山門「赤門」とあわせて学業成就の効能を求めて、受験などを控えた参拝客で賑わいます。

松山道場について

 佐渡時宗の古刹です。「佐渡志」には「此の寺貞和の頃、基を開いて初めは府中橋本の道場とも松山道場といいしは、国府川の橋に近ければにや松山は元より地名なるべし」と伝えています。当時は一山六十坊があり、昔は真言宗とも天台宗であったともいわれていましたが、貞和元年(南北朝)時宗に転宗、大願寺と名を改め、また上杉佐渡攻めの際の焼失後、慶長13年に再建されました。

 大願寺はその昔、「佐渡高野」といわれ、島民が極楽浄土を願い、荼毘にふす死人や骨が運ばれてきた廟所であったことは、今日でも付近の砂丘から大量の骨や骨壷が出土することでも明らかですが、時宗に転宗する前は真言宗または天台宗に属し、領主の祈祷寺として栄えていたのではないかといわれています。又、天台宗であったという説もあり、それは、昔「朝に題目、夕に念仏」を唱えていたからです。

時宗について

 時宗とは鎌倉の末期に一遍(1239~1289)を開祖としてできた浄土系の教団です。
 一遍はもともと一つの教団をつくるという考えはなく、迷える人々に対して「南無阿弥陀仏」の名号を一心に称えることによって救われるという教えを説いていました。なぜなら南無阿弥陀仏という名号によってすでに往生をとげているのだから、念仏を称えることによってわが身が南無阿弥陀仏と一体となり、よってそこではすでに往生は決定しているからです。

 一遍はすべてをすてて日本中を遊行しました。人々には頭で考えたり心で思ったりするのではなく、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と声を出して称えることを勧めました。そして称えた人には「決定往生」(必ず浄土に生まれる)という念仏札を渡しました。算(ふだ)を賦(くば)る、これが「賦算」(ふさん)です。こうした「遊行」と「踊り念仏」とが貧しく虐げられた人々をひきつけたのです。
 遊行と賦算が一遍独自の宗教的実践であり、遊行ニ祖真教上人以後に形成される時宗教団のシンボルとなります。

 時宗の法主は代々遊行を業としていたので、遊行上人と号し、行く先々で布教をして歩き、その教えに帰依したものを引き連れていました。そして適地にくるとそこに教団をとめて開拓させました。当時の不安定な社会において、こうした救民宗教は領主の望むところで佐渡の領主、真野の本間氏は遊行八代渡船上人をあつくもてなし時宗に帰依し、土地をわけあたえました。遊行上人は文和4(1355)年3月中旬から7月29日のほぼ四ヶ月間、府中橋本の道場に布教したので、この時を大願寺の開基としています。
 佐渡大願寺は日本全国の時宗寺院の中でも、一番敷地面積が広く、6万坪あります。

<ミニ知識>
中国の唐の時代に善導大師が念仏の教えを伝導、そして鎌倉時代になり、法然上人が大師の教えをうけて浄土宗を開きました。善導大師は弟子たちを「時衆」と呼び、法然上人も一遍上人もそれに従い、6時(4時間ずつ)に分けて、仏前で念仏を唱える六時礼賛というお勤めをしました。時間ごとに交替、また「別時念仏」といって日を限って念仏三味を行い、徳川時代に「時宗」と改め、宗派の名になりました。

住職 臼木 悦生

第41代住職 臼木 悦生
大正大学 准教授 / NPO法人さど 理事

金子のぼる氏の句碑

天満宮

赤門

大願寺背景~四日町について~

大願寺背景~四日町について~

 四日町はもともと国府跡でした。このあたりの若宮遺跡発掘調査を行った際、砂層の最下部から弥生式土器が、上層部から奈良期から平安朝にわたる須恵器や土師器、古銭、井戸の跡や布目瓦などが豊富に出土したため、弥生時代に人々がここで生活し、古代においては役所的な遺構であることが確認されました。この土地の宗教を形成する重要な要素は、一連のいわゆる民間信仰です。この民間信仰は四日町特有のものではなく、佐渡全島に広く分布していたものの一部です。ゆえに四日町の宗教は大願寺の時宗というものと、こうした民間信仰との習合によるものなのです。

 四日町には現在大願寺、観音院、宝林寺(海潮庵)の三ケ寺がありますが、観音院は大願寺境内にあり、宝林寺は大願寺の末寺で大部分の諸行事を大願寺と一緒に行っています。戦乱の世となり、上杉景勝の佐渡攻めで大願寺の多くの堂が灰塵と化しました。再建後、大願寺は佐渡一円の無縁仏の墓地をもうけ、後にはさらに一般の人々もここに納骨するようになりました。